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なぜこうも人の幸せは異なる?

2017/ 02/ 06
                 
Yahooの記事や他の雑誌でもそうだが、

読んでいると、なぜこうまた人の好みや幸せはことなるのだろうかと、よく思う。


ある人は、公務員の仕事にあこがれるといい、

一方の公務員は、毎日毎日が退屈で退屈でやりがいがなくて、死ぬほどつらい、、、みたいに、

思っている毎日であると愚痴をこぼす。


また、別のテニスの上手な仲間は、これが問題だが、

50歳になっても、まだ現役にこだわり、地域で活躍している。

日本の代表までとはいかないが、若い頃は、全日本の代表候補であった。


彼は怪我をして、回復して、また病気の診断を受け、さらに、怪我をして、闘病生活、、

それでも彼はテニスが好きで、仕方がない。

いろいろなものを犠牲にして、結婚や恋愛もなくテニスだけに没頭して人生を送ってきた。

その過程は、人が遊ぶ時も、人の倍も練習し、、うまくなりたいのだろうか、

充実したテニス人生を送っている。

もう歳だし、現役を辞めてももっと楽な暮らしは他にもあるだろうに、

友人たちは誰しも、歳のせいにし、、実際、試合にも勝てなくなり、

哀れさを感じさせる様子もあるという。


なぜそこまでやる?


後輩の指導もそれなり立派にできるだろうに、

コーチとしても呼ばれても何不自由ない暮らしができるのだろうし、

なぜいちいちリスクを冒してテニスなどに、、、また怪我をするかもしれないだろうし。

昔のような敏捷さは、もう見られないのに、

なぜまだ続けるのだろう?


どうも現役にこだわるというものではないらしい。


自分を打ち込めるものが他にないのだそうだ。

ゴルフじゃだめ、水泳もだめ、マラソンでもなくエアロビでも、無理。

いろいろ試したが、自分にはこれしかないと、悟ったらしい。


試合に負けてもいいのだ、と。

おれからテニスを取ると、生きている証がなくなる、みたいなことを言う。



月日は経ち、親が他界し、兄弟も施設に入るなどしてるが、、、



どんな強い選手もいつかは若い新鋭に負け、やがて、後進に道を譲る、、みたいな流れは、

なかったのだろうか。



華道や茶道、他の芸術と呼ばれるものも、武術であろうが、

その道を究める、とは一体どういうことだろう。

極めるのに時に無駄な時間ばかりかかり、犠牲にした恋や愛は、

どうだったんだろう。



極めると言ったって、自分の命が尽きれば、全ては無くなるというのに、一体その人生に何の価値があり、


どんな意味を見出すというのだろう。


人は死ぬ。動物も植物も、やがて死ぬ。万物には寿命がある。


人の命を落ち葉にたとえて、幹から地面に舞って落ちる一葉のごとく、わずか数秒の出来事なのである。


実感はないが、、、父は3年前死んだ。祖母も、祖父も、幼い頃に死んだ。



死ぬ間際、どんなに後悔しても、もう終わりなのである。


あれをやっておけばよかった、これもやっておけばよかった、と後悔しても、もう遅いのだよ。


どんなに未練はあっても、もうこの世とはさらばなのだし、若い時に戻ってあれもしたかった、これもしたかったなどと思うこと自体


もうダメなんだ。

もう駄目なんだ。

遅いんだって。

死の病床でいくら夢見ても、自分を苦しめるだけじゃん。


なぜ若い時に、、、しておかなかった、しなかった、と思うこと自体、ダメだんだ。




また、


立派な実績を残しても、人は死ぬのだ。


この世から、いなくなるのだ。


どんなに力いっぱい生きても、

力いっぱい生きなくとも、結果は同じじゃないの?

最後は灰となり、宙に消える運命なのだ、地中に埋められ、大地になるのだ、、、


力いっぱい生きる、とか夢を持って生きようとか、

それでごまかしていいのだろうか。

命とは何か、我々はどこに行くのか、全ての人間に共通な課題に何一つ答えず、

まず生きよ、と旗を振り、競争をあおる意味はどこにあるのだろう?


いい友達、いい学校、いい会社、いい結婚、いい家庭、、、その「いい」を追求する意味は、

何をもって正当化されるだろう。

良くても、悪くても、いいのだ。

精一杯でなくとも、いいのだ。


有限という「生」の中に無限(精神性)を求めることに、矛盾はないか。



一万年も、百万年も生きられるものでは、ない。

たかだか、90年、、、、。


晩年なら、誰でも健康で生き続けたいと思う。


それは、単に死への恐怖であり、死の恐怖である。



三島由紀夫は、死からの甘美な誘い?を感じたのであれば、


それは、誤解である。考えすぎである。


自分の子供を奪った、憎いはずのあの海が、今、なんて穏やかにゆったりと人を誘うような寛容さと持っているのだろう、


なんて、それは気のせいだ。


あまりに、死をあまく見ているのではないか。


誘われるままに、人は、死にゆくのだろうか、、、永遠の謎である。


誘われるには、それなりの理由があり、


死に誘われたいという気持ちがあったのでしょう。



さて、人の好みも皆異なることから、人の生き様も異なるのでしょう。


にしても、その生き様に、比較する意味はあるのだろうか。


みんな、好き勝手に生きている。


みんな、自分の「生」を生きている。


兄弟であろうが、親子であろうが、


ただ生きるのに、なぜ比較し、失望したり羨ましがったり、


、、、tobecontinued